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第4話 家政婦契約①

Author: 花柳響
last update Last Updated: 2025-12-21 20:00:12

 茜色と群青が溶け合う夕暮れ時、ようやく家へと辿り着いた。

築三十年を数えるアパートが放つ、湿り気を帯びた古びた木の匂いが鼻をつく。それが今の私に相応しい現実なのだ。けれど不思議なことに、あの息苦しいほどの輝きに満ちた場所から解放された安堵に、そっと胸を撫で下ろしている自分がいた。

「ただいま、お母さん」

「おかえりなさい、莉子。今日は早かったのね」

布団の中から身を起こした母の顔色は、朝よりも少しだけ赤みが差していた。それだけで、張り詰めていた心の糸がふっと緩んでいく。スーパーで手に入れたレトルトのお粥を温めるため、薄暗いキッチンへと向かった。

「ねえ、お母さん。そこの依頼主って、どんな方なの? 派遣会社からは何か聞いてる?」

「ええと、確か三十歳くらいの若い実業家の方ですって。天道グループというところの社長さんらしいわよ」

「天道……」

その名をなぞった瞬間、唇の先が痺れるような錯覚に囚われた。やはり、あの人だったのだ。

母は、彼がかつての隣人であることなど露ほども思っていないはず。当時の彼。母の目に映っていたのは、名も知らぬ隣家の少年でしかなく、気にかける対象ですらなかったのだから。

「独身なんですって。あんなに大きなお屋敷に一人なんて、寂しくないのかしらね」

「……独身、なのね」

お粥をかき混ぜる手が、不意に止まる。

白い渦を見つめる視線の奥で、仄暗い熱がじわりと広がった。

それは、安堵にも似た、許されない喜び。

あの日、私が無惨に壊してしまった関係。あれほど深く愛し合っているように見えた彼女とは、結局結ばれなかったのだろうか。

それとも、あの氷のような瞳を持つ人は、今もまだ誰のことも愛してはいないのか。

よかった。

浅ましくもそんな想いが胸をかすめ、自己嫌悪で指先が震える。

もう関係のないことなのに。自分には、あの方を想う資格など欠片も残されていないというのに。

湧き上がる歪んだ情動を、無理やり鍋の底へ沈めるように、強く、激しく手を動かした。

もう二度と、あそこへは行かない。

派遣会社には、実家の隣だった場所で心が痛むとでも理由をつけて、担当を変えてもらおう。そう決意していた。逃げなければ、飲み込まれてしまう。本能がそう告げていた。

けれど私は知らなかったのだ。

一度足を踏み入れた蜘蛛の巣から、羽をもがれた蝶がそう簡単に逃げられないことを。

その夜。

「ゴホッ、ゴホッ……」

暗闇の中で、母の苦しげな声が響いた。

弾かれたように駆け寄り、額に触れる。掌が焼けるような熱さ。体温計を待つまでもなく、ただ事ではないと悟った。

「……ごめんなさいね、莉子。また、苦労をかけて……」

「いいの、喋らないで。ずっと側にいるから。朝になったら、病院へ行きましょう」

「でも、お金が……」

「大丈夫よ。もうすぐお給料も入るし、なんとかなるから」

節の目立つ、細くなった手を握りしめ、下唇を強く噛んだ。

精密な検査をすれば、今の暮らしを支えるわずかな蓄えなど一瞬で消えてしまう。けれど、父を亡くした後に身を粉にして私を守り抜いてくれた唯一の家族を、このまま失うわけにはいかない。

もっと働かなければ。夜の仕事も増やそう。どんなに過酷な場所であっても構わない。

そう覚悟を決め、母に水を飲ませていた時、枕元のスマートフォンが冷たく振動した。

画面には「派遣センター:佐藤」の文字。

嫌な予感に背筋が強張った。昨日の今日だ。何か不手際でもあったのだろうか。

「……はい、月島です」

恐る恐る通話ボタンを押すと、耳に届いたのは予想外に弾んだ声だった。

「あ、月島さん? おはようございます。夜早くにごめんなさいね。実はね、嬉しいお知らせなのよ」

嬉しい、お知らせ。

今の絶望的な状況とは、あまりにかけ離れた言葉に戸惑う。

「昨日伺ったお屋敷の依頼主様から、ついさっき連絡があったの。『是非またあなたにお願いしたい』って。正式に、指名が入ったわよ」

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